こうちをめいっぱい楽しむナビマガジン「ほっとこうち」本誌オフィシャルホームページです。

懐かしの誌面

株式会社ほっとこうち (有限会社フロンティア:当時)

12090040660s.jpg

1997年3月25日創業

 高知で夢を叶え、独立開業を成し遂げたオーナーに話を聞いていくこの「創業物語」。これまで実に23組、27人もの創業者たちが登場し、立ち上げ時の苦労から、開業に至るまでの裏話、仕事に賭ける熱い思いを語ってくれた。
 最終話となる今回の主役は、今あなたが手にしているこの雑誌、『ほっとこうち』の創業者がついに登場!高知では存続が難しいと言われていたタウン誌業界に、何の知識もなく飛び込み、走り続けてきた男たちの創業秘話に迫る。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

●高知に根ざしたタウン誌
 

12090052451s.jpg
毎週火曜日に開かれる会議の様子。
毎月、書店やコンビニに並ぶ数ある月刊誌のひとつ『ほっとこうち』。ご存知の方も多いと思うが、平成9年4月の創刊から今年で丸7年を迎える、地元の情報を網羅したタウン誌だ。出版しているのは、高知市鷹匠町に事務所を構える有限会社フロンティア。現在、創業時からのメンバー3人をはじめ、13人のスタッフが、日々高知県内を走り回り、雑誌づくりに精力を傾けている。
 事務所には編集、制作、営業と各セクションごとに机が並び、その奥にこの会社を立ち上げた社長・小野川義人の部屋がある。「昔から大好きで今も愛読している雑誌が『プレイボーイ』。ちょっとしたHネタや読み物もある、プレイボーイの高知版といった雑誌ができたらおもろいなぁと思ったのよ、出版のことを何も知らないド素人が(笑)」。小野川は当時を思い出しながら笑う。

●始まりは「金儲けしよう!」
 本格的に雑誌づくりに取り組み始める前、小野川は全く畑違いである、脱臭剤などの製品開発を行う会社に勤務していた。初めて企画から自分が携わった新製品の猫砂が完成したのを機に、商売に自信を得た彼は、かねてから考えていた独立開業を決意。8年間勤めた会社を26歳で退社し、気の合う仲間6人と新規事業を起こそうと盛り上がった。「ビジネスの種類は何でも良かった。とにかくみんなで何かおもろいことをやりたい、一緒に金儲けしようという気持ちが強かったね」。あるときメンバーの一人が「雑誌を出さないか」と提案した。サラリーマン時代に商品の雑誌広告を出したこともある小野川は、即この話に飛びつく。「真っ白い紙に店の名前を載せるだけでお金になる商売ってすごいと思った。当時、高知には『エフジェ』という女性誌だけで、タウン誌というジャンルが確立されてなかったのよ。誰もやっていないことをやればお金が儲かる、本当に単純(笑)」。
 雑誌つくって金儲けしよう―。小野川の言葉に、メンバーはバブリーな生活を思い描き、希望に胸を膨らませた。その中には、現在、営業部長を務める広井洋の姿もあった。もちろん彼も雑誌づくりが儲かると信じて疑わなかった。誰一人として雑誌づくりの経験もなく、ノウハウが皆無にもかかわらず―。

●先の見えない焦燥感
12090052454s.jpg
創業当時、仕事に疲れて事務所のソファーで猫を抱いて寝ている広井。
 早速、小野川たちは雑誌の創刊を謳ったコピー用紙を片手に、高知県内の店を飛び込みで営業してまわった。全員が営業、撮影、原稿とすべてをこなす中で、彼らは初めて雑誌づくりが予想以上に至難の作業であることに気付いていく。「実際に動き出してみて、雑誌は作りこまないといけない、完成するまで収入もない。いかにしんどいか初めて分かった」という小野川。しかもノウハウがないのですべてが手探り、遅々として進まぬ作業―。彼らは先行きが見えない焦燥感に加え、金銭的な苦労も強いられた。メンバーの中には途中で降りる者もいた。小野川はこの期間に、サラリーマンから事業主になること、自分たちがやりたいことで生活していくことの難しさをしみじみと感じたという。広井は生活を維持するために、夜のバイトも始めたが収入は追いつかなかった。「電気とガス、どちらを先に止めようか迷ったね、結局は両方止まるんだけど。水道が止まったときにはさすがに泣きそうになったよ、トイレの水も流せない(笑)」(広井)。しかし、あくまでも雑誌を発行すると決めた気持ちに迷いはなかったという。「当時は営業先で相手にされず、随分と悔しい思いもしたからね。その度に『2、3年で潰れることがない、高知一の雑誌を絶対に作ってみせますよ』と言って回った。だからこそ、どんな状況になろうと雑誌を作るという目標は持ち続けたし、やるならとことんやろうと決めたのよ」。

●大失敗が最大のやる気に
 そして始動から半年以上経った平成8年12月、ついに自分たちが初めて作った雑誌が創刊に至る。はやる気持ちで誌面を目にした小野川は、絶望感に打ちのめされた。「文章は途中で切れている、写真はきれいに印刷されていない。ド素人が作った雑誌は、到底、売り物にはならないような代物だったのよ」。結果、この雑誌は創刊号の一冊のみで消える運命となった。
 この大失敗をきっかけに、金儲けがしたいという野心からスタートした彼らの気持ちは、確実に違う方向へと向かい始めた。「どんな形でしろ、一度やらかしてしまい、応援してくれたお客さんに迷惑をかけている。早く良いものを作って、そのつながりを大事にしたい」(広井)。まもなく小野川は、雑誌づくりのノウハウを仰ごうと、同業社である『エフジェ』のドアを叩いた。この出会いが大きな転機となっていく。

●偶然が好機をもたらす
 小野川が『エフジェ』の経営者である藤田さんの元に相談に行ったちょうどその頃、藤田さんは雑誌の継続自体を考えあぐねていた時期だった。知人の雑誌が潰れたのを引き継ぐような形で、『エフジェ』を立ち上げたものの、約4年で経営は厳しくなっていた。「雑誌から手を引いて元のデザイン事務所に戻りたいが、取引先とのやりとりも続いている、どうしたものか」と考えていた藤田さんと、「雑誌をつくりたいがノウハウが無くて困っている」小野川のタイミングが偶然にもピタリと合致したのだ。
 二人はお互いの環境を仕切り直し、新たな雑誌を創刊することで合意。小野川が代表を務め、経験豊かな藤田さんに実際の制作を発注することにした。「一度失敗したときはもう立ち直れんと思ったこともあったよ。でも資格もない、コネもない、お金もない自分たちは雑誌を作るしかない。しかも、今度はノウハウを持った藤田さんも加わってくれる。根拠のない自信だけはあったよね、絶対にやれる」。さらに、このとき新たなメンバーが一人加わることになった。当時エフジェで働いていた、現・編集長の元吉太郎である。「正直この人たち大丈夫かなーという思いはあったよ。だけど、勢いが落ちていた『エフジェ』にはない、ガツガツとしたやる気を感じたし、自分も一社員だった頃と比べて、任されているという面白みを感じた」という。こうして小野川27歳、広井21歳、元吉24歳の冬、今日につながる『ほっとうこうち』を作り上げてきた主たるメンバーが顔を揃えたのである。

●『HOTこうち』誕生!

12090052452s.jpg
1997年3月に発売されたほっとこうちの創刊号。当時大人気だった「たまごっち」が読者プレゼントとして表紙に掲載されている。
 第二の創刊に向けて、一行は、藤田さんの事務所を間借りして再スタートを切った。コンピュータもすべて無償で貸してもらった。「当時、20万円程度しかお金を持ってなかったのよ。だからきちんとした事務所を借りるお金もなかった。雑誌は印刷代を2ヶ月先延ばしにしてもらって、回収した広告費を経費に回せば、なんとか運営していけると考えていた」。
 そして平成9年4月、『エフジェ』を引き継ぎ、さらに新しい企画を盛り込んだ、高知を楽しむための情報誌『ほっとうこうち』(当時は『HOTこうち』)は産声をあげた。「満足ではないけど安心はしたね、これで応援してくれた人たちに顔向けができる」(広井)。「はっきり言って当時の記憶がほとんどないのよ。よく言えば、雑誌を作ることに夢中になりすぎて」(元吉)。
 しかし、本当に大変なのはこの先。これまで高知に生まれては消えていった他誌を見てもわかるように、雑誌を継続して発行し続けることこそ、並大抵のことではなかったのだ。

●人として最低限の極貧生活
 当然のことながら、月刊誌にとって締め切りは毎月必ずやってくる。全員がすべての業務をこなしていた当時の労働時間は文字通り過酷なものだった。「締め切り前の1週間は不眠不休。寝るときは気絶するとき、みたいな。最初に会社に寝袋を持ち込んだのは元吉君だったかな」(広井)。「家に帰ろうと思ったら帰れんことはなかったけど、布団で寝たらもう二度と起き上がれそうになかったのよ」(元吉)。しかも、広告収入は経費に消えていったので、雑誌の売上がそのまま給料に響いてきた。結果、創刊して3ヶ月ほどは無給が続いたという。「給料が払えない、まともな食事代もあげられない。だけど社長として社員の最低限の生活は確保しなければと思って、インスタントラーメンが安いときに買いだめしたり、エコーという安いタバコを配給したり(笑)」。
 そんな極貧生活の中で今でも思い出されるのは、会社が少しでも潤えば、みんなでユニクロに服を買いに行ったり、イチヤで仕事用のスーツを新調したこと。仕事が一段落して焼き肉屋に行った時には、温かい白米を口にして普通に涙が出たという。「ほんとバカだと思わん(笑)? 給料もないのに一生懸命やったのよ。みんな『何かをやりたい』という気持ちに飢えちょったき、それが雑誌づくりにつながっていった。何やっても面白かったのよ」。雑誌は一人では決して作ることはできない。同じ目標を持つ仲間が集まったからこそ、すべてがプラスに転じていったのだ。

●読者とお客さんに支えられて
 実際、創刊してから経営が軌道に乗るまでには3年の月日がかかったという。それは『ほっとこうち』が広く一般に認知されるまでの期間でもあった。時代の流れに呼応して、急速に拡大していったコンビニでの販売も始めたところ、その追い風に乗って順調に部数は増えていった。雑誌が続けば続くほどに知名度も広がり、広告主も増えていった。「単にお金を儲けようとしたら絶対に違う仕事をしたほうがいいのよ。だけど続けていくうちに、自分たちがやったことに対して反響が返ってくる、喜んでくれる人がいる、応援してくれる人がいる、そういう雑誌作りの面白さが分かってきた」。高知のタウン誌としては最長である7年間、雑誌を続けてきた小野川の本心である。

●紙媒体は絶対に滅びない!

12090052453s.jpg
発売後に読者から届くハガキ。メール全盛のこの時代にもかかわらず、読者ハガキは毎号たくさん届く。
 創刊から7年を迎えて、『ほっとこうち』を取り巻く状況も変わりつつある。後発組の他誌やクーポン付きの無料誌も登場した。そんな中、小野川は競合する相手が出てきたほうがむしろ自社にとってプラスだと考えている。「一社だけでやっていては、読者やお客さんに対して怠慢になるし、それで潰れるならそれだけのもの」と言い切る。そして最後に紙媒体への熱い思いを語った。「これからは今まで以上にアナログに、マニアックに突き進んでいきたい! 情報がペーパーレスになっていく時代のなかで、文字というのは個人の思いがでるから、誰がどんな思いでやっているか、作り手と受け手を密着に結ぶ紙媒体は絶対になくならないと僕は思うちゅう」。
 「高知の雑誌は長続きしない」。いつしかこうささやかれるようになった偏見を塗り替えてきた男たち。新たな若い仲間を迎え、さらに走りつづける雑誌『ほっとこうち』に、まもなく8年目の春が訪れる。

 

「株式会社ほっとこうち」
高知市上町2丁目6-9 ●TEL088-821-0355